首里城の謎、シリーズの第4回になります。
「その3」までを読まれていない方は、先にこちらをお読みください。
首里城の謎、その1 ~ユダヤ人による琉球支配の象徴か~
首里城の謎、その2 ~彼らは方向を知っていた~
首里城の謎、その3 ~首里城はいつ誰が建てたのか?~
今回からは、いよいよ琉球史の謎に迫っていきます。
しかし、ハッキリ言っておきますが、RAPT理論の前では、琉球史の謎など謎の内には入りません。
何者かが歴史の一部を隠蔽し、歪曲してきたから、矛盾だらけの歴史書ができ上り、それを「謎」と言っているだけです。
成約時代の今、全ては白日の下にさらされ、嘘をついて人々を騙してきた者たちは、恥をかいて退くしかない運命にあります。
「真理」をもたらすのは、神様だからです。
それでは、琉球史の謎の一つとされている、志魯・布里の乱を解いてみましょう。
志魯・布里の乱とは
まず基礎知識として、一般的に言われている志魯・布里の乱とは何かを説明しましょう。
尚巴志が琉球を統一して24年後の1453年、第一尚氏王統、第5代尚金福王の死後、王の子「志魯」と王の弟「布里」が王位をめぐって争いました。
この乱により首里城は焼失し、志魯、布里ともに死亡しました。
乱後、金福と布里の弟にあたる尚泰久が王位を継ぎました。
なお、布里は王府を追われその後も生存していたという説もあります。
系図で示すとこうなります。
つまり簡単に言えば、王位をめぐる尚家内の「お家騒動」です。
しかし、首里城を炎上させるほどの大乱になったことや、双方ともに王位を継ぐことができなかったこと、などが不可解であり謎だとされています。
この乱で志魯、布里ともに死亡したことや、明から賜印されていた銀印が溶けて失われ、その後泰久が新たに印を求めたことが明の「明実録」に記されています。
琉球の歴史書には、1726年の蔡温によって加筆された「中山世譜」に初めて登場し、蔡温が清に滞在中に明実録の記録を見て知ったと考えられています。
つまり、それまでの琉球の歴史書には一切の記録が残っていなかったとみられるのですが、これも謎の一つとされます。
動かぬ証拠、お家騒動ではありえない
では解き明かしていきましょう。
ハッキリ言います。
この乱は、お家騒動などではありません。
月派対秦氏の抗争です。
そして勝利したのは月派です。
その、動かぬ証拠をお見せしましょう。
これは、昭和60~61年度に沖縄県教育庁文化課が実施した、首里城跡正殿の発掘調査で確認された、基壇の変遷を示した図です。
基壇とは正殿建物の土台となる石積みで、首里城の場合、正殿の正面の壁は基壇と平行になるように造られています。
つまり、基壇の向きを見れば、その時代の正殿が向いていた方向を知ることができます。
基壇は全部で7期分確認されているのですが、Ⅰ期基壇はごく一部しか確認されていないため、全貌を確認できるのはⅡ期~Ⅶ期の6期分です。
新しい基壇は常に、古い基壇を埋めてその西側に造られており、時代が進むにつれて正殿の敷地が徐々に西側に拡張していったことが判ります。
注目していただきたいのは、Ⅲ期を除く5期分の基壇が、寸分違わぬ精度で互いに平行なのに対し、Ⅲ期基壇だけ他よりも約2°北側に傾いていることです。
(図の赤い点線は私が書き加えたもので、他の基壇と平行になっています。)
そしてこのⅢ期基壇は、志魯・布里の乱の直後に造られたものと考えられます。
なぜなら、その直前まで使われていたⅡ期基壇には、表面が赤く変色し大きな火災に遭遇した痕跡が残っていたからです。
これらから、以下のことが容易に読み取れます。
- Ⅲ期以外の基壇を造った勢力は、首里城正殿の方向に強いこだわりを持っていたこと。
- Ⅲ期基壇を造ったのは、志魯・布里の乱の勝者であり、正殿の方向にこだわりがないこと。
「その1」から読み進められてきた方なら、もうお分かりですね。
Ⅲ期は「月派=第一尚氏」が造った基壇であり、それ以外は全て「秦氏=客家勢力」が造った基壇です。
つまり、志魯・布里の乱によって、一時的とはいえ王府から秦氏の勢力が取り除かれ、月派が掌握したことが判るのです。
この乱が単なるお家騒動ではなく、月派対秦氏の抗争であったことは明らかです。
また、この発掘調査の報告書には、「Ⅲ期基壇に付属している石階段の表面がほとんど磨り減っていないため、この基壇の使用期間が短かった可能性がある」と書かれあります。
つまり、月派が掌握していた期間は短かったということになるのですが、これは志魯・布里の乱の16年後に第一尚氏王統が消滅した史実と完全に一致します。
実は、この乱を境にして歴史の表舞台から姿を消した人物が、志魯と布里の他にもう一人います。
福建土楼群にルーツを持つ客家と考えられる、懐機です。
これらの事実を、素直に解釈するならこうなります。
- この乱は懐機が首謀したクーデターである。
- クーデターは失敗に終わり、懐機は死亡または失脚した。
紙で作られた歴史書は、事実を隠蔽したり歪曲することができますが、遺跡の中に刻まれた事実は決して動かすことはできません。
文字通り「動かぬ証拠」という訳です。
尚巴志の死後、敵対関係が露見する
前回の投稿で「秦氏と月派のねじれ構造こそが、全ての謎を解く鍵となる」と書きました。
秦氏と月派の蜜月関係は、あまり長く続くことはなかったようです。
共通の悲願であった琉球統一を成し遂げたことにより、お互いに依存する意義は薄れ、本来の敵対関係が露見するようになったと考えられます。
特に秦氏にとって月派への協力は、自らの野望、すなわち琉球を手中に収めるための手段に過ぎず、連合を組んだ時点で「いずれは王の座もろとも王国を乗っ取る」ことを考えていたようです。
その決意こそ、「首里城正殿の方向角261°」のもう一つの意味です。
懐機には初めから、尚氏のための城を造ったつもりは全くなく、自分たち客家勢力の城として首里城を建設していたのです。
これは第一尚氏の歴代王の在位年数と享年です。
在位年数 | 享年 | 備考 | |
---|---|---|---|
1.尚思紹 | 16 | 68 | |
2.尚巴志 | 18 | 68 | |
3.尚忠 | 5 | 54 | |
4.尚思達 | 5 | 42 | 世子なし |
5.尚金福 | 4 | 56 | |
6.尚泰久 | 7 | 46 | |
7.尚徳 | 8 | 29 | 殺された? |
第3代の尚忠以降、殺された可能性がある尚徳を除くと、在位年数は4~7年、享年は42~56です。
この時代は今よりも寿命が短かったとはいえ、戦死したわけでもないのに、思紹や巴志と比べて不自然に短命です。
となると、何者かが毒を使って王や王子を徐々に弱らせ殺害した疑いがあります。
第一尚氏王統の当初から、懐機などの秦氏が国相を務めていますので、王城に努める役人や女官、料理人などを自分たちのスパイとして手なずけていくのに十分な時間があります。
そして彼らを使って、忠、思達、金福の3人の王に毒を仕込み、わずか14年で次々と殺していき、第一尚氏の血統を弱体化させていった。
その可能性がかなり高いと思います。
しかし、若い思達が死んだ時点で、さすがに金福もそのことに気付いたことでしょう。
そして、子の志魯に「自分も殺されるかもしれない、懐機に気を付けろ」と忠告していたと考えられます。
「謎」などない、本当の志魯・布里の乱
以上のことを加味して、本当の志魯・布里の乱がどのようなものであったのか、想像力を働かせて考えてみましょう。
志魯から疑いの目で見られていることを知った懐機は、布里をそそのかし懐柔します。
年若い志魯に国政を任せることはできず、自分が後ろ盾となって推薦するので、あなたが王になりなさいと。
迎えた王族と家臣らによる王位継承者選定会議では、志魯派と布里派が激しい議論を戦わせます。
会議の終盤、志魯は懐機への疑念をぶつけますが、懐機は歴代の王に忠実に仕えてきた自分に向かってその言動は看過できないと返します。
結局、会議は紛糾して物別れに終わります。
そして、首里城を舞台とした抗争へと発展していきます。
城に立てこもり抗戦したのは、おそらく志魯軍だったでしょう。
周囲を布里軍に囲まれて、もはやこれまでと感じたとき、志魯は自ら城に火を放ちます。
懐機の思うままに王城を明け渡すことは、絶対にできなかったからです。
燃え上がる正殿を見て、懐機はあわてました。
自分が秦氏のシンボルとして造った城を失うことは耐え難いことだったからです。
しかも、懐機には城以上に失ってはいけない物がありました。
明から賜った銀印です。
民衆の支持がないクーデターを画策し、城を炎上させ、その上銀印まで失うようなことになれば、たとえ戦いに勝利したとしても、明に対して説明ができないからです。
懐機は燃える城に飛び込み、銀印を探します。
しかし、火の回りが早く、焼死してしまいました。
こうして、懐機の画策したクーデターは失敗に終わりました。
抗争の後始末を中心的に行ったのは、第6代王、尚泰久でした。
志魯と懐機は死亡し、抗争のもう一人の当事者であった布里は、責任を負わされ王府を追われました。
泰久は首里城を再建するとともに、明に使者を送り明実録に記されている通り、志魯と布里による抗争の報告と再度の賜印を求めます。
懐機は明から遣わされた人間ですので、明への報告に際しクーデターを主謀し死亡したことは伏せられたか、仮に全てを報告していたとしても公式の文章として残せなかったと思われます。
泰久の指示でこの時再建された首里城正殿は、客家土楼群とは関係の無い方向に向けられました。
おそらく、土地の活用上都合が良かったからだと考えられます。
おおむね、こんなところでしょう。
「謎」など一つもありません。
何者かが「秦氏の野望=懐機の関与」を意図的に隠したため、不可解に見えただけです。
誰が隠そうとしたのかは、言うまでもありませんね。
懐機を失って秦氏=客家勢力は一時的に王城から取り除かれますが、これで引き下がる秦氏ではありません。
第二、第三の刺客を次々と送って、琉球王国を乗っ取ろうと画策します。
今回はここまでにします。
次回はもう一つの謎とされている事件、「護佐丸・阿麻和利の乱」を解きます。
お楽しみに。
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