首里城の謎、その3
~首里城はいつ誰が建てたのか?~

首里城の謎、シリーズの第3回になります。
「その1」「その2」を読まれていない方は、先にこちらをお読みください。

首里城の謎、その1 ~ユダヤ人による琉球支配の象徴か~
首里城の謎、その2 ~彼らは方向を知っていた~

前回の投稿からだいぶ間が空いてしまいました。

実を言うと、このシリーズの執筆を始めた当初は、首里城が建設されたとされる同じ時期に客家が沖縄に移住していることと、その末裔が現在の沖縄の財界や政界を担っている事例を挙げて連載を終了するつもりでした。

しかし琉球の歴史を調べていくうちに、琉球王国黎明期には不可解な出来事が多いことがわかり、それらを解かない限り首里城の謎を解いたとは言えないと考えるようになりました。

この時代は史料が少ないこともあり、多くの研究者や歴史愛好家などが、独自の視点から様々な考えを打ち立て、諸説紛々としています。

多くの文献を読んでいるうちに、あまりの混乱ぶりに、私はだんだんと頭が回らなくなってしまいました。
いつの間にか「非真理」の罠に嵌っていたのですね。

ようやくそれに気付いて、「RAPT理論」と「事実」に整合しない説をバッサリと切り捨てて、もう一度整理しなおしてみると、縺れていた糸がスルスルと解け、複雑だと考えていたことがとても単純にシンプルに理解できるようになってきました。

結論から言えば、やはり首里城正殿は間違いなく秦氏のシンボルであり、琉球を支配しているのは、客家=ユダヤ人です。

彼らがどのようにして琉球を支配していったのか、新たな証拠を提示しながら、驚くべきその歴史を明らかにしていきたいと思います。


琉球の歴史概要

本題に入る前に予備知識として、首里城が建設された前後の、琉球の歴史を簡単に説明しておきます。

琉球の歴史は「王統」で区切り、主なものは「天孫氏てんそんし王統」「舜天しゅんてん王統」「英祖えいそ王統」「察度さっと王統」「第一尚氏だいいちしょうし王統」「第二尚氏だいにしょうし王統」の6王統です。
英祖王統までは首里城とあまり関係がありませんので、このシリーズの中では扱いません。

察度王統以降の簡単な年表を以下に示します。
首里城が建設されたのは、日本では室町時代に相当することになります。

1350年~ 察度王統    2代  56年
1406年~ 第一尚氏王統  7代  63年
1469年~ 第二尚氏王統 19代 410年

察度王統
察度王を始祖とし、沖縄中部の浦添城を居城としました。
明の洪武帝に使者を送り、冊封さっぽう(宗主国と朝貢国の関係にある外交関係)を受け、「琉球国中山王」の賜印を受けました。
この頃の琉球は統一されておらず、察度の中山王国と、北山王国、南山王国の三国が覇権を争っており、南山王と北山王もそれぞれ明に朝貢していました。

第一尚氏王統
南部の佐敷を拠点としていた尚巴志はしが中山王国を攻め滅ぼし、父である尚思紹ししょうを初代の王に即けました。
1416年に北山王国を、1429年に南山王国を攻め滅ぼして、沖縄島を統一し「琉球王国」を創りました。
1427年に首里城近くに建立された「安国山樹花木之記碑」に、王の居城の外に人口の池(龍潭りゅうたん)を掘ったことなどが刻まれており、これが首里城に関する最古の記録とされています。これは現存する琉球最古の碑文でもあります。

首里城と龍潭(wikipedia「龍潭」より)

第二尚氏王統
尚氏に仕える役人であった金丸かねまるが、第一尚氏王統最後の尚とく王崩御の後に王位につき、尚えんを名乗り始祖となりました。
正史では重臣たちが尚徳の子の即位を拒んで殺害し、隠遁していた金丸を担ぎ出して推薦したとされています。
しかし、金丸が主某したクーデターとする説が有力です。
1879年に琉球処分により沖縄県となるまで、410年間にわたり第二尚氏王統は続きました。


久米三十六姓と客家

察度の求めにより、明の洪武帝は1392年に多くの学者や航海士などの技能集団を琉球に派遣し移住させます。
この集団は、離れ小島となっていた現在の那覇市久米に居住したことから、「久米三十六姓」と呼ばれており、その中に福建省出身の客家が含まれていたとされています。

福建省出身者が多いことから「閩人びんじん三十六姓」と呼ばれることもあります。
なお、三十六という数字には特に意味はなく、多くの姓の者たちということだそうです。

実際には、洪武帝による派遣以外にも商売などの理由で来琉した中国人が、自然発生的に集落を形成していったようです。

既に明らかにしたように、首里城正殿を建設し、その正面を正確に福建土楼群の方向にした人物あるいは集団は、福建土楼群にルーツを持つ客家であり、優れた航海術を持っていたと考えられるのですが、この時代にそれに該当するのは、この久米三十六姓以外に考えられません。

彼らは明との外交など重要な職務を担っていたため、王府の中でも重用され高い身分を与えられた者がおり、そのような者が久米三十六姓の中心的な家系であったと考えられます。

第一尚氏の時代に、国相(政治顧問)として国王に仕えた「王茂おうも」と「懐機かいき」という人物がいるのですが、この二人は出自が全くわからないということになっています。

私はこの二人のどちらか、または両方が、福建土楼群にルーツを持つ客家の可能性が高いと考えています。

誰が何時、首里城を建設したのか?

ここからが、私の解き明かしになります。

結論から先に書きます。
首里城の位置には、察度の時代から出城のような何らかの建造物があったとみれらますが、戦前または平成の様式に近い首里城正殿が建設されたのは、第一尚氏王統の初期です。
そして建設の指揮をしたのは、「懐機」です。

決定的な証拠はありませんが、状況証拠を基に消去法で考えると、彼以外に首里城正殿を建設することができた人物はいませんし、そうなると自動的に建設の時期も決まってきます。

懐機は明から派遣されて、第一尚氏の思紹王から金福王まで、5代にわたり国相などとして仕えました。
高い教養と技術を持った人物で、外交や貿易に尽力した他、各種の土木工事を成し遂げました。

首里城周辺の庭園である安国山や龍潭を整備したことは、「安国山樹花木之記碑」に記されているのですが、文面から読み取れるこの碑が造られた最も大きな目的は、庭園整備の記録ではなく、懐機の功績を讃えることです。
つまり、琉球に現存する最古の石碑は、懐機の功績を讃えるものなのです。

安国山樹花木之記碑(沖縄県立博物館・美術館 博物館 常設展

また、後年には離島であった那覇と陸を結ぶ全長約1キロメートルの海上道路「長虹堤」を造りました。

これだけの身分と実績があり、かつ碑文にまでその功績が残されているにもかかわらず、彼の出自は全くの謎とされています。
これはどういうことでしょうか?

どこの馬の骨ともわからない人物を王が国相として召し抱えることなど、絶対に考えられません。
つまり、「知られてはいけないこと」があるため、何者かが隠蔽したと考えるべきでしょう。

そして「知られてはいけないこと」とは、既にこのシリーズで明らかにした、福建土楼群との関係に他ならないでしょう。
つまり彼は、福建土楼群にルーツを持つ「客家」です。
その可能性が極めて高いです。

首里城の建設を任された懐機は、誰にも分らない方法で自らのルーツを首里城の中に記しました。
それが「首里城正殿の方向角261°」の意味の一つです。
実はもう一つ、私は別の意味もあると考えているのですが、それについてはもう少し後で書くことにします。

ところで懐機は、離れ小島の那覇と陸を結ぶ長虹堤を建設した後、天照大神アマテラスを祀る神社を建立しています。
つまりRAPT理論的には、彼は「秦氏」と考えられます。

したがって首里城正殿は創建当初から、秦氏のシンボルとして建てられたということになります。

ここまでを整理します。

  • 現在の様式の首里城正殿は、第一尚氏王統の初期に、久米三十六姓の中心的な人物「懐機」によって建設された。
  • 懐機は福建土楼群にルーツを持つ客家であり秦氏である。
  • そのことを人知れず後世に残すために、首里城正殿を福建土楼群の方向に正確に向けて建設した。




第一尚氏とは何者か?

第一尚氏(以下この投稿の中では”尚氏”と略します)は本島北部の東シナ海に浮かぶ、伊平屋島の鮫川大主をルーツとする家系とされています。

では、秦氏である懐機を国相として召しいれたということは、尚氏も秦氏ということになるのでしょうか?

答えは、「No」です。
尚氏は間違いなく秦氏と敵対する勢力であり、「月派」の可能性が高いと考えられます。

なぜなら、尚氏が察度を滅ぼす前に拠点としていた佐敷には、彼らの守護神である「つきしろ」という神の名前をいただいた「月代宮」が建立されているからです。

『月代宮』(なんじょうデジタルアーカイブ

また、尚巴志生誕にまつわる場所に、「つきしろの岩・ガー」という井戸があります。

『つきしろの岩、井』(なんじょうデジタルアーカイブ

つまりこの時代、本来は敵対関係にある「秦氏」と「月派」が手を結ぶという、ねじれ構造になっていたと考えられるのです。

矛盾しているように思われますが、時代の背景をみると、両者ともに手を組まざるを得ない事情があります。

まず秦氏側の客家ですが、彼らは高い教養と技術力を持っていますが、琉球を統治するための兵力を持ち合わせていません。
この地で生存し、繁栄するための基盤を築くためには、実力がある勢力と手を組むことが不可欠です。

一方の月派の尚氏は、各地の豪族を従え琉球を統一するために、正統な中山国王という明のお墨付きが絶対に必要であり、そのためには秦氏の外交力に頼らざるを得ません。
また、国力を増すために、土木工事や貿易のノウハウが喉から手が出るほど欲しかったはずです。

かくしてここに歴史上稀な、秦氏-月派連合国が成立することになります。
そして、この連合は大成功を収めます。

秦氏である客家の力により、中国、日本、朝鮮、東南アジア諸国と活発な貿易を展開し、経済的に繁栄しました。
また、首里城やその周辺の土木工事を手掛け、国力は大きく増していきました。

もともと統率力や戦闘力に優れていた尚巴志に、こうした客家の力が加われば鬼に金棒です。
北山王国と南山王国を次々に滅ぼし、1429年、悲願の沖縄島統一を成し遂げ「琉球王国」を建国しました。

この様にして生まれた「琉球王国」の旗(商船旗)がこれです。

Wikipedia「琉球王国」より

秦氏の赤と月派の黄色、まさにRAPT理論の通りです。

私ははじめ、秦氏と李家の色だと考えていたのですが、琉球王国の黎明期は秦氏と月派の色という意味だったようです。

整理します。

  • 尚氏は月派であり、秦氏である懐機を中心とする客家勢力とは本来は敵対する関係にあった。
  • 秦氏、月派ともに手を組まざるを得ない理由があり、連合したことにより大成功を収め、沖縄島を統一し琉球王国を建国した。



今回はここまでにしておきます。

次回から、本格的に琉球史の謎に迫っていきますが、この秦氏と月派のねじれ構造こそが、全ての謎を解く鍵となります。

RAPT理論については、以下を参照ください。

「RAPTブログ」はこちらです
https://rapt-neo.com

ニュースサイト「RAPT理論+α」はこちらです
https://rapt-plusalpha.com

※アイキャッチ画像:懐機の功績を讃える安国山樹花木之記碑(昭和10年頃)、金石文歴史資料調査報告書Ⅴ 沖縄県教育文化課・編,1985 より引用

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