はじめに
私は以前から首里城について、ある疑問を持っていました。
それは、正殿が向いている方向についてです。
西向きに建てられているのは、かつての宗主国である中国(明・清)への敬意を表すためとされています。
しかし、実際には真西から約9度も南にズレた方向を向いています。
西にある国に敬意を示すならば、真西に向けるべきだと思うのですが。
正確な方位を知ることはそれほど難しいことではなく、中学生程度の知識があれば十分可能です。
簡単な道具で星や太陽を観測すれば、誤差1度未満で割り出せます。
意図的でない限り、9度もズレることは絶対にありえません。
なので、これには必ず理由があるはずです。
そこで、これについてWEBで調べましたが、そもそもこのことに言及しているページは非常に少なく、あったとしても「風水が関係しているようだ」とか「敷地の形状に合わせたようだ」とか、出典も分からない曖昧な情報しか見つけることができませんでした。
そこで、私なりに調べてみました。
その結果、この角度には、秘められた特別な意味が込められている可能性がわかってきました。
ユダヤ人による琉球支配の象徴か
グーグルアースで首里城の向いている方向を延長した先に何があったのか。
これです。
何やら四角形や円形の物体が所狭しと並んでいます。
これは、2008年に世界遺産に指定された福建土楼の初渓土楼群です。
福建土楼とは中国福建省南西部などの山岳地域にある、要塞風の独特な形状の建築物で、別名「客家土楼」とも呼ばれています。
つまり、客家が多く住んでいる土地です。
そして、客家とはイスラエルから離散したユダヤ人であることが、RAPT理論で明らかになっています。
RAPT有料記事381(2019年6月10日)
今の時代に私たち真に主を愛する民たちが、主に反逆する者たちを滅ぼして、主の歴史の総仕上げをしなければならない。
放浪の民ユダヤ人は、移住先の土地で巧みな政略により支配者階級に取り入りながら、政治・経済などの中枢に入り込んで、支配してきました。
多くの場合、それは可能な限り隠密に成され、外部や後世に記録をほとんど残しません。
しかし何故か、彼らはその事実を自分たちにだけわかるモニュメントなどで残し、誇示したがります。
私は、首里城がまさにそのモニュメントの一つである、と考えました。
つまりその意味は、
『琉球王のルーツは客家であり、沖縄はユダヤ人が支配している』
ということです。
もちろん、反論もあることでしょう。
常識的に考えて、正確な地図の無い時代に、海を隔てて数百キロメートルも離れた福建土楼の方向を知る方法はなかったはずです。
したがって、方向が一致しているのは、ただの偶然と考えるべきだと。
しかし、首里城を築城した時代、人々は間違いなくこの方向を知っていました。
そして、首里城や琉球王を取り巻く人脈には、客家の影が見え隠れしています。
さらに、彼らの末裔は現在も、沖縄県の政治・経済・文化の中枢を握っているようです。
これから数回のシリーズで、少しずつ深掘りして、これらを説明していきたいと思います。
近年の首里城の変遷
今回はそのさわりとして、近年の首里城の変遷について、ごく簡単に紹介しておきます。
1945年(昭和20年) 沖縄戦で破壊 1989年(平成元年) 正殿の復元工事着手(1992年に完了) 2019年(令和元年) 焼失(10月31日未明)
RAPT理論をご存じの方なら、たった三行のこの年表を見ただけで、多くのことを瞬時に理解できることでしょう。
首里城の存亡と、秦氏や天皇家の盛衰が、完全にリンクしています。
もしRAPT理論の教科書が有るなら、載せたくなるほど正確に。
RAPT×読者対談〈第108弾〉世界はアーリア人(秦氏)とチュルク族(月派・出雲)の抗争の上に成り立っている。
しかもご丁寧に、平成の世に復元された首里城は、朱塗の壁に赤瓦と、秦氏のカラーである赤一色でしたね。
つまり、少なくとも近年においては、首里城は秦氏のシンボルだと考えられます。
そして、令和の焼失は10月31日未明、ハロウィンの日です。
悪魔崇拝者たちが火を使った祭りをする日ですね。
今回はここまでにしたいと思いますが、以上の説明だけで、首里城が単なる建造物ではなく、イルミナティにとって重要なシンボルであることが、十分お分かりいただけたと思います。
わずかなヒントから、ここまで解ってしまう。
これが、RAPT理論のスゴイところ、まさに神様の理論です。
では、次回をご期待ください。
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