首里城の謎、その6
~尚徳と金丸・第一尚氏の終焉~

首里城の謎、シリーズの第6回になります。
「その5」までを読まれていない方は、先にこちらをお読みください。

首里城の謎、その1 ~ユダヤ人による琉球支配の象徴か~
首里城の謎、その2 ~彼らは方向を知っていた~
首里城の謎、その3 ~首里城はいつ誰が建てたのか?~
首里城の謎、その4 ~志魯・布里の乱を解く~
首里城の謎、その5 ~護佐丸・阿麻和利の乱は、尚泰久による敵対勢力掃討作戦~

「護佐丸・阿麻和利の乱」で宿敵を滅ぼした尚泰久ですが、そのわずか2年後に薨去し、時代はいよいよ第一尚氏最後の王である尚徳の世へと移っていきます。

泰久の死について、詳しい記録はありません。
しかし、7年という短い在位年数で、46歳の若さで死亡しているところを見ると、何者かによる暗殺を疑わざるを得ないでしょう。

まあ、正室が客家のスパイである護佐丸の娘だったわけですから、王府の中には客家の息のかかった者が、少なからず紛れ込んでいたに違いありません。

泰久の死後、側室の子である21歳の尚徳王が即位します。
若い王を中心的に支えたのは、泰久の盟友であり実質的に王府のナンバーツーに昇り詰めていた金丸でした。

この金丸が後にクーデターを起こし、第二尚氏王統の始祖となるのですが、第二尚氏王統は客家勢力が支配していたことは、首里城の方向の変遷を見れば明らかです。
つまり、第一尚氏王統から第二尚氏王統に移行する際に、客家による琉球王国の乗っ取りが行われたということになります。

尚徳と金丸の人物像を追いながら、いかにして客家が琉球王国を乗っ取っていったのかを見ていきましょう。

第一尚氏と第二尚氏

本題に入る前に、第一尚氏と第二尚氏の関係について、補足説明しておきましょう。
同じ「尚」氏を名乗っていますが、両者に血縁は無く、全く別の勢力です。
現在の沖縄県での、両者の立ち位置を知るには、その陵墓を見れば明らかです。

こちらが第二尚氏の陵墓、「玉陵たまうどぅん」と言います。
首里城にほど近い場所にある荘厳な作りの墓で、世界遺産の一つであり、国宝に指定されています。

第二尚氏の陵墓 玉陵(たまうどぅん)

一方の第一尚氏の陵墓は、この「天山陵てんざんりょう」です。
やはり首里城に近い場所にあるのですが、住宅の裏の崖下の庭木の後ろにあり、その様子を伺い見ることはできません。
文化財等の指定は一切なく、看板も無いため、調べなければ存在すらわかりません。

第一尚氏の陵墓 天山陵

第二尚氏のクーデターにより第一尚氏王統は消滅しますが、天山陵はその際に焼き討ちされました。
遺骨はその前に近親者らによって運び出され、県内各所にバラバラに埋葬されています。

その後の沖縄戦や宅地開発によってさらに破壊が進み現在に至ります。
第一尚氏の関係者らの再三にわたる要請にも関わらず、文化財に指定されることはなく、私有地のままになっているそうです。

琉球を初めて統一した王族の陵墓なのに、この扱いはあまりにも酷いとしか言いようがありません。

RAPTブログには江戸時代の天皇家の陵墓、「月輪陵つきのわのみささぎ後月輪陵のちのつきのわのみささぎ」について書かれてあり、日本のトップの墓とは思えないほどのぞんざいな扱いを受けていました。
鹿児島(薩摩)と山口(長州)と高知(土佐)はドルイド教で結ばれた「太陽派」であり、「月派」を倒すために明治維新を起こしました。

天山陵の扱いはこれ以下であり、第二尚氏以降に琉球を支配してきた勢力が、如何に第一尚氏を憎み、しえたげているかがわかります。

つまり、第二尚氏は現在も沖縄県で支配的な勢力の一翼であり、第一尚氏はそれに敵対したためにしえたげられている勢力だということです。
もっとも、勢力と言えるほどの力を現在も維持しているかわかりませんが。

なお、第一尚氏の末裔には、護佐丸の血をひく者など、第二尚氏に召されて繁栄している一族もいます。

尚徳の人物像

では、第一尚氏王統最後の王である尚徳の人物像を見ていきましょう。
第二尚氏時代に書かれた琉球の正史によると、尚徳は悪政を行ったとされています。
尚徳の目に余る悪政に、金丸は隠居して王府を去ったそうです。

しかし、前王統の最後の王を暴君に仕立てるのは、続く自分たちの王統の正当性を示す目的がありますので、正史に書かれてある通りに受け取ることはできません。
ここでは、別の史料から尚徳の人物像に迫ることにしましょう。

琉球王国の富の多くは、東南アジア諸国と中国・日本・朝鮮との三角貿易によってもたらされました。
従って、東南アジアとの交易が多い時期は繫栄し、少ない時期は衰退したと考えることができます。
そして、この時代に外交や航海術で琉球の交易を支えていたのは、久米三十六姓、すなわち客家勢力でした。

次の表は、琉球と東南アジア諸国との交易の回数を示したものです。
沖縄県教育委員会の琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブを参照して作成しました。

この表からは、実に興味深いことが読み取れます。

在位期間中に最も交易回数が多かったのは、第二尚氏の尚真の29回です。
しかし、在位年数で割った1年あたりの頻度は0.6回と、決して多いとはいえません。

頻度で比較すると、第一尚氏の尚巴志と尚忠が1年あたり1.2回と、最も多くなっています。
このころは、第一尚氏と客家勢力である懐機が手を組んだ時期であり、琉球王国の黄金時代と言ってもいいほど交易が盛んに行われていました。

続く尚思達、尚金福、尚泰久の時期には、全く交易が行われていませんが、これは第一尚氏と客家勢力が敵対に転じたことを意味しています。
この時期に、焼失した首里城の建て直しや、戦乱が続いたことを考慮すると、王国の財政はひっ迫していたと考えられます。

さて、注目したいのは尚徳です。
尚巴志と尚忠には及びませんが、年間1.0回と堂々の3位です。
少なくとも経済政策に関しては、悪政なんてとんでもありません。
東南アジアと盛んに交易を行い、琉球王国の財政の立て直しに励んでいたことが明らかです。

これは、客家勢力との関係が修復されたということでしょうか?
おそらく、好むと好まざるとに関わらず、客家勢力に頼らざるを得ないほど財政がひっ迫していた、ということなのでしょう。
つまり、形の上では第一尚氏王統が継続しているように見えますが、内情は客家勢力の傀儡かいらいに近い状態だった、と考えられるのです。

それを象徴する出来事があります。
尚徳は在位中に安里八幡宮を創建しています。

安里八幡宮
ChiefHira – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17895793による

八幡宮の総本社は、大分県の宇佐神宮ですから、RAPT理論では秦氏となります。
秦氏の正体はロスチャイルドでした。

そして宇佐神宮の神紋は「左三つ巴」、第二尚氏の紋と同じです。

左三つ巴紋

実はこの様に、尚徳が第二尚氏的なふるまいをとったことで、「第一尚氏は秦氏なのかもしれない」という疑いが生じ、私は少し混乱してしまっていたのですが、客家勢力の傀儡であったと考えるとスッキリと理解できます。
やはり、第二尚氏(=客家勢力)こそ秦氏であり、首里城は秦氏の象徴ということになるのでしょう。

尚徳が客家勢力と組んで交易を行うことができたのは、金丸の力があったためです。
泰久王の時代に、金丸は御物城御鎖側官(貿易長官)に任命されていましたので、職務上、久米三十六姓との親交を深めていたと考えられるからです。

金丸とは何者か

では、金丸という人物について見ていきましょう。

彼は伊是名島の百姓の出身で、自分の水田にだけ水を引き入れた盗水の疑いをかけられて、24歳の時に妻と弟を連れて沖縄本島に逃亡したとされています。

27歳の時、後の尚泰久となる越来王子に見いだされ、首里に移住し第一尚氏の仕官となり、第3代尚忠王に仕えます。
順調に出世し、第5代尚金福の時に、38歳で当時としては最高位の高官である黄冠に抜擢されます。

第6代尚泰久の世になると、40歳で西原間切の領主と成り、さらには45歳で御物城御鎖側官(貿易長官)に就任しました。
このように、第一尚氏での金丸の出世は目覚ましく、歴代王の信頼が絶大であったことが伺えます。

その後クーデターを起こして、第二尚氏の始祖となるわけですが、当然ながら第二尚氏の一族の中では最も崇められるべき存在のはずです。
しかしどういう訳か、一族の中では軽んじられ、むしろ貶められている節があります。

伊是名島からの逃亡については、第二尚氏の正史に書かれてあるのですが、始祖にあたる人物を「百姓」という卑しい身分に書くのは、正史としてどうなのかという疑問があります。
仮にそれが本当のことであったとしても、多少は粉飾して書くのが正史の作法というものでしょう。
ましてや「盗水の疑いで逃亡」ということまで赤裸々に書くのは、まるで一族の汚名を宣伝するようなものです。

さらに言えば、第一尚氏の時代に、彼は仕官からわずか11年で最高位の高官に抜擢されています。
ただの百姓にこのような出世ができるはずがありません。
少なくとも読み書きソロバンという、一通りの教養を備えていた人物と考えるべきで、当時の教育水準を考えるならば、それなりの身分であったのは明らかです。

にも関わらず、第二尚氏の正史にはそのことが何も書かれてありません。
これはどういうことでしょうか?

一応、このような説があるそうです。
正史が書かれたのは薩摩による侵攻の後ですので、始祖の出自をわざと卑しく書いたのは、征服者である薩摩への配慮である。
自分たちは卑しい身分の末裔だから、薩摩に忠誠を誓って従順にいたします、という意思表示といことでしょうか?
しかしだとしたら、薩摩の支配が終わった後も、自分たちの歴史を改めないのはなぜなのでしょう。
納得がいきませんね。

しかし、RAPT理論を知っていれば、単純明快な答えが簡単に見つかります。
考えられることは、たった一つしかありません。
「金丸は客家ではない」ということです。

イルミナティたちユダヤ人が繁栄してきたのは、自分たちの努力で技術や才能を磨いてきたからではありません。
巧みな陰謀と策略で他の民族の支配層に侵入し、富を吸い取ってきたのです。

自分たちを高める努力ではなく、他人を騙して蹴落とすことに終始してきた訳です。
利用価値のある人物を思い通りに操るため、一時的に誉めそやすことはあるかもしれませんが、価値が無くなれば捨てるだけです。
特別な理由がない限り、身内でもない者を後世にわたって賞賛し続けることはありません。

なぜ「天皇派」と「教皇派」は互いに敵対しながら、常にぴったりとくっついて行動してきたのか。

金丸はおそらく、由緒正しい琉球人です。
彼をクーデターの主謀者に仕立て上げることで、琉球人によるクーデターを装いながら、実質的に客家の支配体制を築き上げることができます。
いかにもユダヤ人らしいやり方です。

宇喜也嘉おぎやかという女性

金丸は王府の台所事情にも精通していましたので、尚徳に財政の立て直しの必要性を説き、久米三十六姓と連携して交易を再開することを進言したことでしょう。
そして尚徳は金丸の進言に忠実に従いました。

ここに、客家勢力にとって、千載一遇のチャンスが生まれます。
金丸さえ手なずけてしまえば、尚徳を如何様にもできるわけで、悲願である琉球王国乗っ取りが可能となります。

しかし、金丸は20年以上にわたって第一尚氏に忠実に仕えてきた者です。
客家勢力はどうやって手なずけていったのでしょうか?

実はこの頃、金丸は50歳ですが、20歳の若い嫁を娶っています。
伊是名島時代から苦楽を共にした、糟糠の妻がいるにも関わらずです。
そして、この結婚に前後して東南アジア諸国との交易が再開しているのです。

この若い嫁「宇喜也嘉」は、懐機と同様に全く出自が分かっていません。
第二尚氏の始祖・尚円王の妻であり、第3代尚真王の母という、極めて重要な地位にある人物なのに、出自が分からないというのは、どう考えても不自然です。

つまり、分からないのではなく、隠蔽されているのです。
この宇喜也嘉こそ、客家勢力の中心的な人物の娘に違いありません。

国王の富と名誉、そして若い女性まで。
これら全てを与えると言われれば、大抵の男は魂を売ってしまうことでしょう。
今も昔も、イルミナティのやり方は変わりませんね。

金丸の名誉のため付け加えておきますが、この頃には第一尚氏の衰退は明らかであり、客家との連携は不可避だった可能性が高いです。
客家の要求を受け入れ、自分が国王となることにより、「尚氏」の名を継承することができるなら、煮え湯を飲むという覚悟だったのかもしれません。

今回はここまでにしておきます。



RAPT理論については、以下を参照ください。

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https://rapt-neo.com

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