はじめに
今回は、沖縄で英雄とされている護佐丸が、実はスパイだったという、沖縄県人にとってはちょっとショッキングな話題です。
しかし、冷静に読めば、そう考えるのが正しいとお分かりいただけると思います。
本当は、琉球史の研究者の方の中にも、そうかもしれないと考えている人が多いのではないでしょうか。
でも、あまりにも大胆な発想ですし、人々からの非難を恐れて、発言することができないのでしょう。
この世の中には、常識では考えられないような方法で人心を惑わしたり、非道なことをする人たちが少なからず存在します。これは厳然たる事実です。
そうしたことを含めて、この世のことを分かりやすく紐解いたのが「RAPT理論」です。
この理論を学ぶと、歴史や政治、医療、科学などあらゆる分野の複雑で難解に見えることが、実はとても単純に理解できることに気付きます。
情報に溢れた複雑な現代社会を生きていくうえでとても有用ですので、ぜひ多くの方に知っていただきたいです。
文末にリンクを貼っておきますのでご覧ください。
さて、今回は、首里城の謎シリーズの第5回になります。
「その4」までを読まれていない方は、先にこちらをお読みください。
首里城の謎、その1 ~ユダヤ人による琉球支配の象徴か~
首里城の謎、その2 ~彼らは方向を知っていた~
首里城の謎、その3 ~首里城はいつ誰が建てたのか?~
首里城の謎、その4 ~志魯・布里の乱を解く~
本題に入る前に、訂正があります。
このシリーズでは、首里城建設に関係した二つの勢力について、以下のように考えてきました。
第一尚氏 = 月派
客家勢力 = 久米三十六姓 = 秦氏
これは、1945年以降の首里城の焼失と再建の歴史が、秦氏の盛衰にリンクしていることから、「首里城は秦氏の象徴」と私が先入観を持ってしまい、建設したのも秦氏だろうと考えたからです。
しかしよくよく考えてみると、「首里城は琉球の象徴」であり、あるときは秦氏に、ある時は出雲族にというように、時の支配者がその事実を誇示するモニュメントとして使っていると考えるべきでした。
そしていろいろな事実を総合して考えると、むしろ、
第一尚氏 = 秦氏
客家勢力 = 久米三十六姓 = 李家 = 出雲族
と考える方が、辻褄が合うように思います。
とは言え、現時点でこの枠組みを確定してしまうのも危険な気がします。
よって、当面は「出雲族・月派・秦氏」という枠組みは使わずに、
第一尚氏 vs 客家勢力
という構図で、考えていきたいと思います。
いずれにしても、この時代に両者が一時的に手を組み、その後激しく争うようになっていったのは間違いありません。
既に書いた記事の中には、辻褄が合わない部分もありますが、今後必要に応じて修正していこうと考えています。
ご了承ください。(2024年10月修正)
「護佐丸・阿麻和利の乱」とは
今回は、第一尚氏王統の終盤に起こった、もう一つの謎の事件「護佐丸・阿麻和利の乱」を解いていきます。
護佐丸は、沖縄では最も人気がある歴史上の人物の一人です。
琉球の正史である「中山世鑑」に記されたその人物像を一言で表現するならば、「忠臣にして悲運の武将」です。その実直な生き様は芝居などで演じられ、県民の賞賛の的となっています。
ここでは、正史にあるこの乱について説明しますが、より詳しい説明が必要な方は、こちらなどを参考にしてください。
志魯・布里の乱から5年後の1458年、尚泰久王の時代、統一を果たしたとはいえ、琉球は地方の按司(豪族)がまだ力を持っており、首里王府による統治が成されていたとは言い難い不安定な状況でした。
特に、勝連半島に拠点を置く「阿麻和利」が力を付け、王府にとって無視できない勢力となりつつありました。
そこで泰久は、忠臣である護佐丸を中城城に配置してけん制するとともに、娘の百度踏揚を阿麻和利に嫁がせ、和を図りました。
そうした中、阿麻和利から泰久に、護佐丸に謀反の動きがあるとの、思いもよらない情報がもたらされます。
泰久はそんなはずはないと思ったものの、念のため密偵を中城城に送り、護佐丸の動きを探らせました。
密偵の報告は、阿麻和利の情報の通り、確かに護佐丸が戦の準備を整えているというものでした。本当は護佐丸は阿麻和利との戦いに備えて軍備をしていただけだったのですが、不幸にも誤った報告がなされてしまったのです。
泰久は阿麻和利を大将とする討伐軍を中城城に送ります。
突然の敵の来襲に護佐丸は慌てますが、王府の軍旗を見たとき、王に敵することはできないと反攻することはせず、妻子もろとも自害して果てました。
護佐丸の潔い最期の報を聞き、泰久は、全ては阿麻和利の陰謀だったと悟ります。そして討伐軍を勝連城に送り、阿麻和利を滅ぼしました。
この乱により、結果的に泰久は、有力な二つの家臣を失うこととなり、その後の第一尚氏王統の衰退に繋がったとされます。
つまりごく簡単に言えば、阿麻和利の陰謀に泰久が騙されて、忠臣である護佐丸を殺してしまい、騙した阿麻和利に報復した、というストーリーです。
この物語には、「謎」と言うよりも、明らかな矛盾点があり、後の世に事実を歪めて創作されたことはほぼ間違いありません。
主な矛盾は以下の二点です。
- 泰久王の正室は護佐丸の娘であり、順当に王位が継承されたならば、護佐丸の孫にあたる安次富金橋が泰久の次の王になるはずでした。したがって、そもそも護佐丸には謀反の動機が希薄です。また、泰久との信頼関係は護佐丸の方が阿麻和利よりも明らかに深いです。にも拘らず、泰久が阿麻和利の密告を信じて護佐丸の謀反を認定したこと。
- 結果的に護佐丸の謀反の疑いが晴れたにも関わらず、護佐丸の血を引く安次富金橋、三津葉多武喜、八幡加那志の兄弟は王府に戻ることが許されず、泰久の死後は側室の子である尚徳が王位を継承したこと。
そのため、護佐丸は本当に逆臣であったという説もあり、奄美大島や喜界島の権益をめぐる争いが背景にあったとも言われます。
では、真実はどのようなものだったのでしょうか。
実は、あることが解ってしまえば、この乱を紐解くことはそれほど難しくありません。
護佐丸は客家勢力のスパイ
結論から先に言います。
護佐丸は忠臣などではなく、中国からの移民であり、客家勢力のスパイです。
公式には、護佐丸は英祖王統の流れを継ぐ伊波按司の一門で、由緒正しい琉球人ということになっています。
しかし、これだけ有名な人物なのに、どういう訳か護佐丸の出生や幼年、青年時代のことは知られていません。
懐機もそうでしたが、琉球史上の人物には、しばしばこのように出自がよく分らない者が登場します。
そして、その多くは「不明」なのではなく、何者かによって「隠蔽」されている可能性が高いです。
護佐丸は尚巴志と共に北山討伐に参戦し武勇を上げたことなどから、第一尚氏の忠臣とされているのですが、そもそも琉球統一は客家にとっても悲願でしたので、これだけで忠臣と決めることはできません。
むしろ、第一尚氏の信頼を得て忠臣として振舞うことにより、スパイとして王府の中枢に入り込み、客家勢力による乗っ取りの布石となった可能性が高いです。
どういう訳か、琉球史の研究者たちはほとんど無視しますが、護佐丸が中国人であることを伺わせる証拠はたくさんあります。
以下、その証拠を上げていきます。
石積みアーチ構造の元祖
私が確信を得た、決定的な証拠はこれです。
これは、世界遺産にも指定されている座喜味城址で、1420年代に護佐丸が手掛けたものです。
その石門は「石積みアーチ構造」という技法で造られています。
石積みアーチ構造とは、その名の通り石材をアーチ状に組み合わせて作る中空の構造で、橋や門、建物の外壁などに用いられます。
コンクリートなどの結合剤を使用しなくても、アーチにかかる荷重だけで強固な構造物を造ることができます。
ローマの水道橋やコロッセオが有名です。
この技法が日本本土にもたらされた歴史は意外に新しく、1634年の長崎の眼鏡橋が初めだとされています。
琉球にはそれに先立って伝搬されていた訳ですが、この座喜味城址の石門こそ、琉球史に残る最古の石積みアーチなのです。
つまり、護佐丸こそ日本国内で石積みアーチを最初に造った人物ということになります。
ここで、一つの疑問が生まれます。
地方の一按司に過ぎない彼が、どうしてこのような構造物を造ることができたのでしょうか?
琉球史の研究者たちは、「築城の天才」などと称えながら、護佐丸が独自に考え付いたかのような説明をしているのですが、そんなはずはありません。
彼にこの技法を教えた人物がいるはずですし、それは日本人や琉球人でないことは明らかです。
琉球に渡来した中国人が、護佐丸にこの技法を伝授したのでしょうか?
それならば、その中国人の名が知られていないのはなぜでしょう。
当時の琉球では最高の石積み技術者だったのですから、それなりの身分があったはずで、名が知られていないはずはありません。
では、護佐丸が中国に留学して技術を学んだのでしょうか?
既に述べたように、護佐丸の若年期の記録はありません。
もし本当に留学していたならば、当時としては相当なエリートなわけで、そのステータスが知られていないというのは、どう考えても不可解です。
つまり、護佐丸こそ中国からこの技法をもたらした技術者本人であり、中国からの移民で、その事実は隠蔽されている。
そう考えざるを得ません。
客家(ユダヤ人)は、移住先の土地で巧みな政略により支配者階級に取り入りながら、時に養子に入るなどして、政治・経済などの中枢に入り込んで支配し、後世にその記録をほとんど残さないことが知られています。
護佐丸も、まさにそういう人物であったと考えられます。
二人の毛國鼎
護佐丸の正式な名前は、「中城按司護佐丸盛春」と言い、唐名を「毛國鼎」と言います。
これはいずれも護佐丸の死後に付けられた名前だということです。
唐名とは中国式の名前であり、中国との親交の深い琉球では、身分の高い者は唐名を併せ持つことが普通であったようです。
たいへん紛らわしいのですが、琉球にはこの「毛國鼎」の名前を持つ歴史上の人物がもう一人います。
護佐丸が死んでから約150年後の1607年に、明から派遣された渡来人、久米三十六姓の一人です。
中国版ウィキペディアには、生年1571年~没年1643年、字は擎台、出身は福建省漳州、久米村の毛氏の祖とあります。
福建省漳州は、まさに福建土楼群(客家土楼)が多い場所に他なりません。
ズバリ、首里城正殿が向いている方向です。
公式には、護佐丸と久米村の毛氏は、何の関係もないということになっており、名前が同じなのは偶然ということになっています。
なにしろ、護佐丸は由緒正しい琉球人ということになっていますからね。
確かに、鈴木一郎とか、佐藤太郎とか、同姓同名が多い名前なら、偶然の一致ということもあるかもしれません。
しかし、中国語版のウィキペディアや中国の検索サイト百度で検索してみても、この二人以外に「毛國鼎」という名の人物はヒットしません。
それほどポピュラーでない名前なのに、琉球という狭い場所に同姓同名の有名人が存在していたというのは考えにくいことです。
となると、同じ一族の出身者である可能性が高いです。
ちなみに、久米村の毛國鼎は、琉球における儒学の祖とされています。
奇妙な一致、護佐丸の家紋
これは護佐丸の家紋です。
一つ巴と三つの扇型です。
私はこれを見たとき、あるマークを思い浮かべました。
これです、「孔子学院」のロゴマークです。
鳩と地球の図案にしてありますが、ベースは一つ巴と三つの三角で、三角は扇状に曲げてあります。
公式には、「漢」という字の簡体字である「汉」を図案化したことになっているそうですが、ここまで似ているのは偶然とは思えませんね。
この奇妙な一致は、護佐丸も儒家ということを示しているのでしょうか?
とすれば、何の関係もないはずの二人の毛國鼎が、儒教というキーワードで繋がることになり、護佐丸も久米村の毛國鼎も、客家であり儒家であり、同じ一族である可能性がさらに高くなります。
もう一つ、別の考え方もできます。
孔子学院は、中国共産党のスパイ工作機関です。
立命館や早稲田大学など15大学に設置された「孔子学院」は、中共のスパイ工作機関だった!! アメリカではFBIの捜査対象に
今まで、護佐丸が客家のスパイであることは知られていなかったのですから、そういう意味では、スパイの成功例だったと言えるかもしれません。
だとすると、むしろ
「護佐丸にあやかって、その家紋を孔子学院のマークにした」
と考えることもできるかもしれません。
子孫の繁栄
護佐丸は中城城で王府軍に攻め込まれ、妻子と共に自害したとされています。
では子孫が残っていないのかと言えば、それは違います。
それどころか、後に五大名門と呼ばれるほど繁栄しています。
護佐丸の三男、盛親(毛盛親)が乳母の産まれ郷である国吉村に落ち延び、その後、第二尚氏王統の尚真王に抜擢されました。
その4で明らかにしたように、第二尚氏王統は客家勢力の王統ですので、その下で繁栄したということになります。
RAPT理論で明らかなとおり、彼ら(イルミナティ)の世界では血のつながりの無い者が大きく登用され、繁栄することはあり得ません。
ゆえに、護佐丸は客家勢力の一員ということになります。
最古の亀甲墓 = 客家式の墓
沖縄を旅行された方なら、亀の甲羅のような形をした大きな墓をご覧になったことがあるでしょう。
1686年に8代目の子孫によって建てられた護佐丸の墓は、琉球で最古の亀甲墓とされています。
これと全く同じ形式が、中国の客家の墓に見られます。
「地堂式」と呼ばれる墓で、主に山の斜面を利用して建てられ前が低く背面が高い、墓の左右にひじ掛け状の構造がある、墓の前に広場がある、などの特徴が一致しています。
護佐丸の墓が建てられて以降、琉球では上流階級を中心にこの形式の墓が急速に広まっていったのですが、これは琉球の支配層を客家が占めていた証左と言えます。
そしてもちろん、最初に亀甲墓を造った護佐丸の子孫が、客家の血筋であることを示しています。
さて、これだけの証拠があればもう、反論の余地はないでしょう。
護佐丸は、中国人であり、客家勢力の一員で、スパイです。間違いありません。
阿麻和利は何者なのか
さて、護佐丸について長々と書いてきましたが、一方の阿麻和利についても少し触れておきましょう。
正史では、尚泰久にウソの報告をして、護佐丸を嵌めた悪者として描かれてありますが、琉球の歌集「おもろさうし」には阿麻和利を英雄として讃える歌が収録されています。
悪政を強いる前城主の茂知附按司を倒して10代目勝連城の按司となり、東アジアとの貿易を進め、大陸の技術などを積極的に取り入れたそうです。
阿麻和利については史料が少なく、現時点ではハッキリとしたことは言えないのですが、おそらく、泰久と護佐丸、阿麻和利の三者は、互いにけん制し合うような関係だったと考えられます。
最も力を持っていたのは国王の泰久でしょうが、仮に護佐丸と阿麻和利が手を結び、他の按司たちも合流するようなことがあれば、泰久が不利になりかねない微妙なパワーバランスだったと思われます。
琉球を統一したとはいえ、王府が絶対的な力を持っていたとは言えない状況の中で、泰久としては難しい舵取りを余儀なくされていたわけです。
阿麻和利については、今後も新しいことがわかれば、更新していきたいと思います。
護佐丸・阿麻和利の乱は、尚泰久による敵対勢力掃討作戦
では、護佐丸・阿麻和利の乱を、解いていきましょう。
正史に書かれてある通り、護佐丸が忠臣であり、阿麻和利が王府を脅かすような勢力であったならば、泰久は護佐丸と共に、阿麻和利を攻め滅ぼせば良かっただけです。
そうせずに、娘の百度踏揚を阿麻和利に嫁がせたのは、泰久が護佐丸を信頼していなかったと考えるべきでしょう。
いくら顔かたちが似ており、日本語や日本文化に精通していたとしても、日本人にとって外国人を見分けることはそれほど難しくありません。
護佐丸が中国人であり客家であることは、当時の琉球でも知られていた可能性が高く、少なくともその噂はあったことでしょう。
そして、志魯・布里の乱により、第一尚氏と客家勢力の敵対が決定的になった以上、泰久が護佐丸を信用せず、むしろ敵視したのは当然の流れです。
しかし、あからさまに護佐丸と敵対すれば、按司の中には護佐丸に味方する者も出てくるかもしれません。
そこで泰久は一計を案じます。
新進気鋭の勢力である阿麻和利を利用して、護佐丸を討つことです。
そのために娘を降嫁させて、懐柔したのです。
護佐丸の中城城に阿麻和利が攻め上ったのは、泰久の指示によるものです。
おそらく、護佐丸が油断する日時を予め調べ上げた上で。
そして、期待通り阿麻和利は護佐丸を討ち取りました。
その後、泰久は阿麻和利を攻め滅ぼします。
これには口封じという意味もあり、予め計画していたのでしょう。
これら一連の出来事について、泰久は対外的には、
「阿麻和利が独断で護佐丸を殺したので、その復讐を果たした」
ということにしたと考えられます。
他の按司たちが王府への信頼を損ねないためのウソの説明です。
非道なやり方ですが、最小限の戦力で敵対する二つの勢力を掃討し、かつ他の按司たちの信頼を損ねないことを考慮した、抜群の作戦だったと言えます。
泰久はなかなかの策略家だったようです。
そして、正史に書かれてあるストーリーは、
『泰久が対外的に語った説明に、尾ひれを付て護佐丸を英雄に仕立てた』もの、
ということになります。
いかがですか。
難解に見えた「護佐丸・阿麻和利の乱」。
護佐丸がスパイだということさえ気付けば、簡単にスッキリと解くことができます。
そして、護佐丸が中国人でありスパイであることを示す証拠は、意外にもあちこちに散りばめられているものです。
それに気付かないのは私たちの脳が、間違った情報に洗脳されているからに他なりません。
ぜひ、多くの方がRAPT理論を学んで、正しく有意義に生きることができるように祈ります。
さて、こうしてひとまず客家勢力の野望を食い止めた泰久ですが、これで引き下がる客家ではありません。
さらなる刺客を使って、琉球王国の乗っ取りを図ります。
次回に続きます。
RAPT理論については、以下を参照ください。
「RAPTブログ」はこちらです
https://rapt-neo.com
ニュースサイト「RAPT理論+α」はこちらです
https://rapt-plusalpha.com
※アイキャッチ画像は、護佐丸の居城中城城の美しい石積みです。
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